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ブログ/2009-12-12

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1834年の今日、明治最大の文化人・福沢諭吉生まれる~生誕175年~

27歳の頃の福沢諭吉
  • 1834年(天保5年)12月12日に誕生した福沢諭吉は、蘭学者、自然科学者、著述家、啓蒙思想家、教育者であり
    明治最大の文化人であり、明治の六大教育家の一人とされている。

    また、東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長を務め、慶應義塾(大学)の創設者でもある。
    更に、商法講習所(後の一橋大学)や専修学校(後の専修大学)、伝染病研究所の創設にも尽力した。
  • 福沢諭吉が斬新な発想と次から次へと近代化を推進したのは
    何度もアメリカやヨーロッパを訪れたためと考えられる。
    • 25歳の時、日米修好通商条約の批准交換のため、護衛艦・咸臨丸の従者の一人としてアメリカ合衆国に派遣された。
      ここでは文化の違いに関して様々な衝撃を受けた。
    • 26歳の時、欧州各国へ使節団を派遣した際、福沢もこれに同行出来た。
      ここでも日本との文化的差異に驚きつつ、書物では分からないような、例えば病院や銀行、郵便法、徴兵令、選挙制度、議会制度などについて学んでいる。
    • 28歳の時には、香港、シンガポール、インド洋、紅海、地中海ルートでマルセイユに上陸。
      リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、アムステルダム、ベルリン、サンクトペテルブルク、リスボンなどを見学した。
    • 33歳の時には横浜から再渡米し、ニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンDCにも到着している。
  • 福沢諭吉34歳の時には、自らの蘭学塾を慶應義塾と名付け、教育活動に専念するようになる。
    維新後も洋学の普及を主唱し、国会開設運動を全国に広める。

    1898年、64歳の時に脳出血で倒れいったん回復するが66歳の時に再び倒れたが、奇跡的に回復。
    1901年1月、67歳の時に再び脳出血で倒れたが、2月3日に死去した。

福沢諭吉が後世に残し伝えた多くの業績と思想!!

  • 福沢は銀行、特に中央銀行の考え方を日本に伝えた人物で、日本銀行の設立に尽力した。
  • 会計学の基礎となる複式簿記を日本に紹介した。借方・貸方という語は福沢の訳によるものである。
  • 日本に近代保険制度を紹介したのも福沢である。自著『西洋旅案内』の中で、生涯請合(生命保険)、火災請合(火災保険)、海上請合(海上保険)の三種の災難請合について説いている。
  • 福沢の代表的な言葉が「独立自尊」であった。その意味は「心身の独立を全うし、自らその身を尊重して、人たるの品位を辱めざるもの、これを独立自尊の人という」と。
  • ベストセラーになった『西洋事情』や『文明論之概略』などの著作を発表し、明治維新後の日本の中華思想、儒教精神から脱却して西洋文明をより積極的に受け入れる流れを作った(脱亜思想)
  • 慶應義塾大学をはじめとする学校法人慶應義塾の運営する学校では、創立者の福沢諭吉のみを「福沢先生」と呼ぶ伝統があり、他は教員も学生も公式には「○○君」と表記されている。
  • 福沢は明治維新になって、欧米諸国の女性解放思想をいちはやく日本に紹介し、一夫多妻や妾をもつことを非難し、女性にも自由を与え、男と同様の教育を受ける権利があると主張した。

    明治民法の家族法の草案段階では、福沢の男女同権論に近いものであったが、士族系の反対があったため、父家長制のものに書き換えられてしまった。

    福沢諭吉の人権思想を明治時代から取り入れていたら、その後の日本はもっと早く近代化されたのではないでしょうか。



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