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ブログ/2010-03-05

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1898年の今日、現在の中国大発展の礎を築いた周恩来総理誕生!

周恩来総理
  • 中華人民共和国が建国された1949年(昭和24年)10月1日以来、1976年(昭和51年)1月8日に死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。
    また、1972年(昭和47年)に当時の日本国首相であった田中角栄と日中共同声明に調印し日中国交回復を成し遂げている。
  • 周恩来は1917年(大正6年)19歳のとき日本に留学している。そして、明治大学政治経済学部に通学する。
    日本では勉学に励むほか、友人と活発に交流して祖国の将来などについて語り合っている。

    また、各地を訪れでは見聞を広め、今日の大発展した中国の礎を築く何かを得たのではないかと思われる。

ガンと闘いながら最後まで人民のために尽くし抜いた尊き生涯!!

  • 1972年(昭和47年)74歳の時、膀胱ガンが発見される。しかし、その後も休むことなく職務を続けたが病状は悪化の一途をたどる。

    2年後、北京の解放軍第305病院に入院する。だが、病室でもなお執務を続けた。
    しかし病勢は衰える気配がなく、1975年(昭和50年)秋頃から病床を離れられなくなり、

    ついに1976年(昭和51年)1月8日、周恩来は死去した。全国民は深い悲しみに包まれた。
    その遺骸は本人の遺言により火葬され、遺骨は飛行機で中国の大地に散布された。
  • 周恩来に対する著名人の評価についていくつかご紹介します。
    • 1972年の米国ニクソン大統領訪中のお膳立てをした、当時のキッシンジャー大統領補佐官はこう評価しています。
      今までに会った中で最も深い感銘を受けた人物であり、上品で、とてつもなく忍耐強く、並々ならぬ知性を備えた繊細な人物である」と。
    • 当時の国連事務総長であったダグ・ハマーショルドは「外交畑で今まで私が出会った人物の中で、最も優れた頭脳の持ち主」と証言している。
    • ノロドム・シアヌーク殿下は本来、反共主義者だったが、周恩来だけは高く評価していた。その理由を尋ねられたとき、「だって、彼のほうが私よりよっぽど王族らしいじゃないか」と答えている。
    • 『周恩来伝』を書いたジャーナリストのディック・ウィルソンは、周恩来をケネディやネルーと対比してこう語っている。「密度の濃さが違っていた。彼は中国古来の徳としての優雅さ、礼儀正しさ、謙虚さを体現していた」と賞賛している。

日本に対して戦争責任と損害賠償を一切求めず国交回復に応じた周恩来!!

  • 1972年9月28日の日中共同声明に調印したことにより、日中国交回復が実現した。
    このことは換言すれば、日本と中国との戦争が実質的に終結したことを意味する。それは声明の中に「日中両国は戦争状態に終止符を打つために・・・・」とあることからも明らかです。
  • 戦争が終わった後で、次に戦争責任はどうなるのか、賠償をどうするのかという問題になります。
    しかし、中国側は大変な決断をします。勿論、周恩来が当時の毛沢東主席と入念な相談の結果であることは言うまでもありません。

    まず戦争責任については「日本はA級戦犯という形で東京裁判を認めて、国際社会の一員としてサンフランシスコ条約で復帰したのであるから、一切責任はとらない」としていました。
    これは大変大事なところで、日本の閣僚等がA級戦犯を祀る靖国神社を参拝するたびに非難するのは、こうした背景があるからです。
  • また国家賠償についてはどうであったか。重慶集中砲撃や南京大虐殺ほか中国の各地で侵略や謀略の限りを尽くした当時の日本兵。これに対して中国側はこう声明します。

    中国人民は大変な被害を受けた。しかし同時に、日本の民衆も何百万人と死んだ。被害者は、中国人民だけではなく日本人民も同様である。過ちを犯したのは、日本の一部軍国主義者である。従って、賠償金は一銭もとらない」と。

    これは大変な決断です。中国では何千万人と日本軍に殺された。その家族や親戚などが何億とおり、もし賠償金に換算したら天文学的数字になったことでしょう。その方たちへの説得と了承をどう取り付けるかが、中国にとって最大の課題でした。

    ある一例を挙げると、世界で一番最初に無差別爆撃が行われたのは、日本軍による中国の重慶でした。その結果、6万人も死んでしまったのです。
    7年ほど前に、その重慶で日本選手が参加するサッカーの試合がありました。そのとき、試合の途中で観客からペットボトルなどが大量に投げ込まれたことがあります。
    中国人民の心の中にはそういう背景があるという一例です。

    その説得のために中国の将来を担う共産党の若手幹部を全国各地に派遣しました。それが国交回復前の2~3年間ほどかかったといいます。
    そうした涙ぐましい努力をして中国は国交回復を成し遂げたのです。
  • 私は、日本が経済大国として今日があることを考えると、昭和47年の中国の配慮と恩を決して忘れるべきではないと思います。
    中国は周恩来の作った基盤のもとに、その後の首脳が努力して現代の世界一とも言える経済成長と大発展を成し遂げたと思っています。

    その歴史の持つ重みとそこから謙虚に学ぶべき姿勢がなくなったならば、日本は歴史にしっぺ返しされることになるのではないでしょうか。
    その芽はもう、出てきているのかも知れません。

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