ブログ/2010-03-07
1981年の今日、石油業界の英雄、出光佐三逝く!
人間尊重と家族主義を貫き、社員の一人もクビを切らない!!
私が、この出光佐三の生きざまに感動したこともあり、タイトルに「英雄」と表記したことをご了承ください。
- 石油王と言われた出光佐三は、士魂商才(武士道的経営)にこだわり続けた。
儲けるための事業ではなく、人間尊重と国家に貢献する事業を目指した。
何度も崩れそうになりながら、その都度、乗り越えてきた。
それは何よりも信頼関係の構築に努力したからだと言われている。
- 経営者として佐三が最も大切にしたモットーは「人間尊重主義」と「大家族主義」。
彼は常にこう語っている。- 会社を支えるのは人だ。人を大切にせずして何をしようというのか。
社員は家族だ。家計が苦しいからと家族を追い出すようなことができるか! と。
- 会社を支えるのは人だ。人を大切にせずして何をしようというのか。
- そして、佐三は常識破りの「四無主義」を打ち出した。
クビを切らない、定年制がない、出勤簿がない、労組がない、の4つである。
- 1981年(昭和56年)3月7日、出光佐三は95歳の天寿を全うして人生の幕をおろした。
側近の一人が、安らかに眠る佐三を見ながら言う。「40年を超える付き合いだったが、この人は一度も、『金を儲けろ』とは言われなかった」と。
佐三は皇室を篤く崇敬していたが、彼の死去に際して昭和天皇が次の歌を残した。- 出光佐三逝く 三月七日
「国のため ひとよつらぬき 尽くしたる きみまた去りぬ さびしと思う」
- 出光佐三逝く 三月七日
第二次世界大戦の復員者も含め、1人の社員のクビを切らなかった信念と闘い!!
- 戦前、出光商会(当時)は台湾、朝鮮さらに中国本土にも事業拠点を拡大し、社員も千名ほど抱える大会社に成長した。
しかし、太平洋戦争の敗戦により日本は焦土と化し、佐三も全てを失ってしまう。
しかし、敗戦後1か月経ったころ、彼は驚くべき宣言をする。
海外から引き揚げてくる社員は一人もクビにしないというのだ。復員者は約800名。
資産もない、事業もない、あるのは莫大な借金だけ。しかも、佐三に何か見通しがあった訳でない。ただあったのは、社員を思う気持ちと信念だけであった。
- クビを切らないため、何でも行った。しかし、いずれもうまくいかなかった。
そんな折、GHQ(占領軍本部)は「旧海軍のタンクの底に油が残っている。これを処理し活用せよ」という指令を発した。
しかし、これは非常に危険な作業だ。窒息、中毒、爆発の危険性があり、誰もが避けていた。しかし、回り回って出光に来たのだ。
佐三は喜んだ。これで石油界に復帰できると。
さっそく、待機組を動員してタンクの底をさらう作業を開始した。
連日、手足がただれるような大変な作業であったが、佐三はじめ社員の気持ちは明るかった。石油界復帰の希望に溢れていたからだ。
- 約1年半に及んだ「底さらえ」で廃油2万キロリットルの汲み取りに成功した。
この仕事ぶりがGHQに強烈な好印象を与え「出光を重んずべし」との空気を生み出し、これが石油界復帰と出光蘇生の原点となった。
「タンク底にかえれ」は出光興産の合言葉となったという。
【社員を大事にしたエピソード】
- 復員後、出光商会の社員が、気力を失い、郷里に引きこもっていた。その青年社員が、出光に辞職の手紙を書こうとした時、父は烈火のごとく叱った。
「お前が兵隊に行っている6年間、出光さんは給料を送り続けてくれた。それを辞めるとは何ごとだ。すぐ、出光さんにお礼の奉公をしろ。6年間、タダで働いて、それから帰ってこい。」と。 - 青年は、心から反省し、思いなおし、生涯、出光の発展のために働いたという。
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