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ブログ/2010-06-03

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1853年の今日、アメリカ合衆国のペリー、黒船で来航?!

マシュ・ペリー提督
  • 1853年(嘉永6年)6月3日、アメリカ合衆国海軍所属の東インド艦隊の艦船が日本の江戸湾浦賀(現神奈川県横須賀市浦賀)に来航し、
    マシュ・ペリー提督によってアメリカ合衆国国書が江戸幕府に渡され、開国を迫った歴史的事件であった。

    当時、産業革命を迎えた西ヨーロッパ諸国は、大量生産された工業製品の輸出拡大の必要性から、インドから東南アジアさらに中国大陸の清国への市場拡大に取り組んでいたが、そのことは後に熾烈な植民地獲得競争となっていった。

    そのインドや東南アジアに拠点を持たないアメリカは、西欧との競争のために中国の清を目指したが、そのために太平洋航路の確立が必要だったことが背景にあったとされる。

日米和親条約を締結し、一直線に幕末から明治維新へと突き進む?!

  • ペリー提督率いる4隻の艦船が浦賀沖に現れ、それを初めて見た日本人は度肝を抜かれてしまったという。
    それまで日本に来ていたロシアやイギリスの帆船とは違い、黒塗りの船体の外輪船は、帆のほかに外輪と蒸気機関があり煙突からもうもうと煙をあげているその姿から、皆、「黒船」と呼んだ。

    4隻の合計大砲は100門もあり、ペリーは臨戦態勢をとりながら勝手に江戸湾の測量を行ったり、アメリカ独立記念日その他で祝砲など数十発の空砲を発射したため、江戸は一時、大混乱になったりした。
  • ペリーは幕府に対して、アメリカ大統領の親書を渡し開国を促したが、幕府側は検討協議のため1年間の猶予を求めた。
    このため、ペリー提督率いる艦船は、翌1854年3月に再び来航し、結局、日本とアメリカとの間で日米和親条約を締結し、次いで5月に下田沖に移動し、和親条約の細則を定めた「下田条約」を締結した。

    有名な吉田松陰が、外国留学のため密航を企て黒船に乗り込もうとしたのは、1854年(嘉永7年)4月25日、下田沖に停泊していた折のことであった。

    この条約締結で日本は、3代将軍徳川家光以来200年以上続いてきた「鎖国」が解かれ、いよいよ激動の幕末から明治維新へと近代化の道を突き進むことになる。

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