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ブログ/2010-09-02

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1641年の今日、歴史上、悪名高き(?)吉良上野介生まれる?!

「忠臣蔵」の佳境、赤穂47士の討入により主君の無念を晴らす!!

吉良上野介
  • 1701年(元禄14年)3月14日、勅使接待役を務めていた播州赤穂藩5万石の藩主、浅野内匠頭(タクミノカミ)が江戸城内松之廊下で、接待指導役の吉良上野介にこの間の遺恨、覚えたるか!」と叫んで背後から斬りつけた

    吉良が驚いてその者を見ると、浅野内匠頭。吉良が振り向いたところをもう一太刀をあびせ吉良の眉間に傷がつき、
    さらに止めをと向かうところを、近くに居合わせた梶川与惣兵衛(ヨソベイ=江戸城留守居役)が飛びついて押さえつけた・・・・・

    映画やドラマ『忠臣蔵』の導入部のクライマックスでお馴染の場面だが、
    その顛末が当時の幕政を主導していた大老・柳沢吉保を通して報告を受けた5代将軍綱吉は激怒し、即刻、内匠頭は田村家にお預けの後、切腹手向かいしなかった上野介には何らのお咎めが無しと決定された。

    目付の多門伝八郎が柳沢に、即刻切腹の沙汰は軽率すぎる、と異議を申し立てたが、柳沢は再び将軍に取り次ぐことは無かったという。

愛知県内の吉良町では名君の誉れ高い吉良上野介義央(ヨシヒサ)

  • 浅野内匠頭が将軍家居住の、江戸城という公共の場で、なぜ刃傷に及んだかという理由は、実はよく分かっていない。それは、詳しい供述書があるというが意図的に隠された可能性が高く、伝えられていないからという。
    つまり、松之廊下で内匠頭が叫んだ「この間の遺恨」の中身が明らかになっていないため、諸説が飛び交い、それがドラマの内容をよりドラマチックに仕立てているとも言えます。

    しかし播州赤穂藩の大石内蔵助以下家臣の面々には、それだけで主君の想いと無念さを全て理解できたのだ。
    刃傷事件から1年9か月後の1703年(元禄15年)12月14日深夜、赤穂浪士47士が江戸松坂町の吉良邸に乱入し、戦闘の末、吉良上野介の首級を挙げ、泉岳寺の浅野内匠頭の墓前へ供え、1件落着となって映画は終わる。
  • ところで愛知県内の吉良町では、吉良上野介のことを古来より「吉良さん」と呼びならわしており、吉良町では名君とされている。
    そのためか、日本で『忠臣蔵』が受けないのは、この吉良町と上野介の長男が養子として入った上杉家のお膝元・米沢だけという。

    なお、最近の研究では、刃傷事件の2時間ほど前に吉良が、表玄関で内匠頭を面罵したという。さらに、上野介から指導を受けたことのある他の大名たちも事件の前に「吉良は傲慢だから辛抱するように」と内匠頭に忠告している

    だからこそ上野介に対する世間の評判は非常に厳しいものがあり、現在に至るまで悪役・吉良上野介は消えないのであろうか。

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