ブログ/2011-01-08
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1642年の今日、偉大な天文・物理学者、ガリレオ・ガリレイ没す!
- 1564年2月15日、イタリアのピサ郊外で音楽家で呉服商のヴィンチェンツォ・ガリレイの長男として生まれた。
17歳でピサ大学に医学専攻で入学するが、翌年には数学者に師事してユークリッドやアルキメデスに学び22歳の時にアルキメデスの著作に基づいて天秤を改良し、最初の科学論文『小天秤』を発表する。
28歳の時に大学の教授となり、46歳まで幾何学、数学、天文学を教えているが、この時期に多くの画期的な発見や各種の改良を成し遂げている。
- 1609年45歳の時、オランダで望遠鏡の発明特許について知り、自ら10倍の望遠鏡を作成し更に20倍のものに作り変え、以来天体観測を続ける。
月を観測しクレーターや山を発見、さらに翌年には木星の衛星を前後して4つを発見(これらはガリレオ衛星と呼ばれている。)し、加えて金星観測も踏まえ、
ガリレオは、当時絶対的に信じられていた天動説に対して、地動説を確信するようになる。
また、この信念を46歳の時に論文『星界の使者』で発表し、ドイツの天文物理学者であるヨハネス・ケプラーにも送っている。
ガリレオ裁判の不名誉な濡れ衣は、1992年ガリレオの死去から350年後に晴らされた?!
- ガリレオは天体観測を行うにつけ、さまざまな発見を行い地動説を唱えるようになった。
それは特に、木星の衛星・金星の満ち欠け・太陽黒点等の発見による科学的根拠に基づくものであったが、当時の教会をはじめ他の科学者も天動説を信じて疑わなかった。
2回にわたるガリレオ裁判の結果、地動説を唱える者はすべて異端者であり、ガリレオも有罪判決を受けた。
ガリレオの刑は無期刑であったが、直後に軟禁に減刑になっている。しかし、自宅への帰宅は認められず、その後一生、監視付きの邸宅に住まわされ、散歩のほかは外に出ることを禁じられた。
- ガリレオの死後も名誉は回復されず、カトリック教徒としての埋葬も許されなかった。
ローマ教皇の正式な許可に基づく埋葬は1737年3月12日、彼の没後95年に初めて行われた。
そして、1965年(昭和40年)にローマ教皇パウロ6世が初めてガリレオ裁判に言及したことが発端となり裁判の見直しが始まった。
最終的に1992年(平成4年)、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世がガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。
ガリレオの死去から実に350年後のことであった。
さらに、2008年12月21日、国連やユネスコが定めた「世界天文年2009」に関連した説教で
当時のベネディクト16世はガリレオらの業績を称え、地動説を改めて公式に認めた。
- ガリレオは、コペルニクス、ケプラー、ニュートンと並び、科学革命の中心人物とされているが、
当時の教会の一方的な政教一致の権力によって、どれほど科学の進歩が遅らされたであろうか。
先覚者は理解されにくい、迫害されることが当然のこととよく言われるが、今後、このようなことは起きないと信じたいが、
人間の持つ知恵の偉大さとともに、人間の愚かさも様々な面で表面化してしまうこともあり、常に謙虚に賢明な対応ができるよう心がけたいものである。
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