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ブログ/2011-01-21

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 1530年の今日、越後の虎・上杉謙信生まれる。

ガクト扮する上杉謙信
  • 1530年(享禄3年)1月21日上杉謙信は越後守護代・長尾為影の四男、虎千代として春日山城に生まれた。
    初名は長尾景虎(かげとら)と称していた後に関東管領・上杉憲政から上杉氏の家督を譲られ上杉政虎と名を変えて、上杉家が世襲する室町幕府の重職・関東管領に任命される。

    さらにその後、将軍・足利義輝より要請を受けて上洛し、最終的に上杉謙信(輝虎)と名乗った
    戦国時代の生涯であり、周辺の武田信玄、北条氏康、織田信長、佐野昌綱らと合戦を繰り広げた

    特に、5回に及んだ武田信玄との川中島の合戦は、後世、何度も物語として描かれており、映画、テレビドラマ等でも取り上げられるなど、良く知られている。
  • 1577年12月18日、謙信47歳のときいったん春日山城に帰還するが、12月23日には次の遠征に向けての大動員令を発した。
    翌年の3月15日に遠征を開始する予定であったが、その6日前の3月9日に春日山城で倒れ、1週間後の3月13日に急死してしまう。享年49歳であった。

    倒れてからの昏睡状態により、死因は脳溢血であろうと見られている。
    辞世の句は「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」であった。

    謙信は、武神・毘沙門天の熱心な信仰家であり、本陣の旗印にもの文字を使っている
    また自らを毘沙門天の化身(転生)であるとも称していたという

    あるテレビドラマで謙信役を演じた歌手・ガクトが一番似ているように思ったものですが、いかがでしょうか。

戦国武将としての戦略家だけでなく人情家であり優れた文化人でもあった!

  • 上杉謙信は優れた戦略家、戦術家だけでなく、和歌に通じ、達筆でもあり、公家との交流も深く文化人としても素晴らしかったと言われている。
    特に源氏物語を始めとする恋愛物を好んで読んでいたとされ、上洛した際に開催された歌会でも見事な恋歌を詠み、参加者全員を驚かせたという。
    また、琵琶を奏でる趣味もあったようだ
  • 合戦では情報を得ることを重視しており、軒猿という忍者の集団を抱えていた
    また平時においても、出羽三山・弥彦山・黒姫山等の山伏も諜報組織に組み入れていたことが知られている。
  • 宿敵・武田信玄に対しての上杉謙信の姿勢
    • 謙信は、実際のところ信玄をかなり嫌っていたと言われている
      それは信玄が父親を追放したり、謀略を駆使して敵を貶めたりすることについて、謙信は彼の持つ道徳観に反しているからだといわれる
    • 信玄が今川氏真によって塩止めを受けて困っていたとき謙信は今川の行いを「卑怯な行為」と批判し、信玄に塩を送ったという。(「敵に塩を送る」という言葉はここから出たものとされている。)

      その時、謙信はこう言ったといいます。「私は戦いでそなたと決着をつけるつもりだ。だから、越後の塩を送ろう。」と。

      これに対し信玄は感謝の印として福岡一文字の在銘太刀「弘口」一振(塩止めの太刀)を謙信に贈ったという
      現在、この太刀は重要文化財に指定され、東京国立博物館に所蔵されている。
    • 信玄の死を伝え聞いた謙信は「我、好敵手を失えり、世にまたこれほどの英雄男子あらんや」と言い、号泣したという
      その時家臣が信玄亡き今こそ武田攻めの好機」と攻撃を勧める意見に対し&color():Invalid color: blue'';」と退けている
    • また、信玄は死に臨んで跡継ぎの勝頼に謙信は義理がたい武将なので、人に頼られれば決して見捨てることはない。自分の死後は謙信を頼れ」と遺言している
  • 謙信は大の酒好きであったが、他人と酒を酌み交わすような飲み方を好まず、ひとり縁側に出て、梅干しだけを肴に手酌で飲んでいたと伝えられている。
    また、生涯妻帯禁制を貫いたため、彼の4人の子どもは全員が養子であった。

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